ザ リース ホテル & ラグジュアリー アパートメンツ - Queenstown, Central Otago, 9300, New Zealand

ザ リース ホテル & ラグジュアリー アパートメンツは、クイーンズタウンの開拓者で創始者のウィリアム・ギルバート・リースが、約150年前にまとめた独自のホスピタリティを継承しています。リースは、探検家として地図にクイーンズタウンを載せ、羊飼いとして約24万エーカーにわたるワカティプ湖の地に牧場を開きました。また世界トップクラスのクリケット選手、オールラウンドなスポーツ選手、優れたアーティストとしての側面も。リースは1827年、ハーバーフォードウェスト生まれのウェールズ人。12歳の時、英国海軍で働く父親を海で亡くしました。15歳の時、ハンガーフォード運河で溺れていた若者を救出。彼の勇敢な行動が称えられ、Royal Humane Society Medalを授与。その後も、さまざまな救出活動に貢献しました。


ウィリアム・ギルバート・リースとクリケットとのつながり


リース家とその親戚は、クリケット界の「イギリス王朝」を築いたと言われています。リース家とポコック家、ギルバート家、グレース家を合わせると、12人以上がトップクラスのクリケット選手でした。その内4人がイングランド、その他はオーストラリア・ニューサウスウェールズ州やビクトリア州、またニュージーランドの様々な地域でプレイ。リースもまた、ニューサウスウェールズ州やオタゴ、カンタベリーのチームで活躍していました。彼らの中で最も有名な選手がウィリアムのゴッドサンでいとこのW・G・グレース。グレースがまだ幼い時、リースは彼にクリケットバットをプレゼントし、その使い方を教えてと言われています。その後、グレースはイングランドのキャプテンとして、44年間にわたりクリケット界を支配。ザ リース ホテル & ラグジュアリー アパートメンツの図書館には、ゴッドサンのグレースが書いた、オーストラリアのクリケットやオーストラリアの審判に関する著書が保管されているので、ぜひチェックを。

卒業後

1852年には、当時キャンバーウェルにあった海軍兵学校を卒業し、エンジニアリングの自習を経て、エクセターにあるマウントラドフォード大学の大学助手を務めたリース。次に彼は、ニューサウスウェールズ州の金鉱でウェルシュゴールドの採掘に。そしてオーストラリアで農業を行うことに可能性を感じ、オーストラリアの牧畜業者、ジョージ・ガミーとウィリアム・ルイス・グラント大佐の2人とパートナーシップを結び、牧場を開くためニュージーランドの地図に載っていない、未開拓の地を目指しました。ニュージーランドに向かう直前、いとこで恋人のフランシス・ギルバートと結婚式を挙げるため、1858年にイギリスへ一時帰国。その後、夫婦で「リースの約束の地」へと旅立ちます。

探検

1859年2月、新婚夫婦はポート・チャーマーズに到着。到着後、リースは休むことなく、すぐに現在のタパヌイに羊牧場を開きました。完成後、第一子(メアリー・ローズ)の出産に立ち会うため、急いでダニーデンに。出産後、車でシャング川の北側に向かい、ニューサウスウェールズのパートナーたちから届く羊を育てるため、コールクリークの放牧権を取得。そしてまたダニーデンに戻り、次の遠征の計画を立てました。1860年1月には、6頭の馬と6人のチームで次の目的地に向けて出発。その道のりは長く険しく、地図に載っていない未知の世界でした。

険しい道のり

6人はダニーデンからワイタキ河口、オマラマからアフリリ、さらにリンディスを通ってクルーサ川まで行き、その次にウィルキンス駅の南西にある、ハウェア湖とワナカ湖の分岐合流点を通って、カードローナエリアの山脈を登り、頂上からの美しい景色を見渡しました。沢山の山々に囲まれた、その堂々とした景色。農場経営者の彼らにとっては素晴らしくも憂鬱なものでしたが、リースとニコラス・フォン・タンチェルマンは違います。2人はさらにクラウン山脈から南方に進み、次の山も登山。その頂上に着いた時、彼らを待ち受けていたのが、後の「リースの約束の地」となる希望の土地だったのです。

発見

リースとフォン・タンチェルマンは3週間にわたり、湖の南岸に沿って平野や山を探検。 馬に乗ったり、いかだを漕いだり、徒歩で歩いたりと、とても荒ただしい旅でした。また途中で野生の犬やネズミを撃退したり、火事からの難を逃れたり、空腹の辛さにも耐えました。ダニーデンを出発してから、およそ6週間後に帰宅。ボロボロの身なりでやせ細った彼らは、旅でスケッチした地図を提出し、放牧権の申請や手続きを行ないました。結果、リースはワカティプ湖周辺の土地(約24万エーカー)の放牧権を取得しましたが、すぐに羊を放牧するという条件付き。すなわち、3,000頭の羊を引き連れ、険しい山々を登り、コー​​ルクリークとアロー川の間にある、激流を越えることを意味します。何度もくじけそうになりましたが、放牧権の承認を得るには達成しなければいけませんでした。

開拓

土地を開拓するだけでも、十分大変な作業。リース夫妻はインバカーギルを訪れ、南部で有名なルイス・エイカーズ船長からホエールボートを購入。船を「ウンディーネ」を名付け、それに建物の資材や材料を積みました。またワカティプ湖までの荷物を運ぶため、雄牛の群れも購入しました。ウンディーネの最初の航海は、リースと妻をクイーンズタウンまで運び、またダルビー経由でダニーデンまで運ぶこと。 この航海路は、家から資材を運んだり、牧場からウールを運ぶため、リースが以前から計画していたルートです。ウンディーネは後に、ワカティプ湖の交通を担う初のフェリーとなりますが、今の彼はまだそのことを知りません。

羊の大移動

クイーンズタウンの新しい自宅を建築中の間、リースは羊の大移動の計画を開始しました。若い羊飼いのアルフレッド・ダンカンは、ショートカットを教えてくれました。しかし、激しい流れのカワラウ川を、羊たちはジャンプして越えることができませんでした。そこでリースとダンカンは、代わりに羊たちをいかだで運ぶことに。リースは泳いで川を渡り、ローブを川の反対側に結びつけました。一回目の挑戦で、いかだが転倒。その下にダンカンと彼を救出しに行ったスイマーが閉じ込められてしまいました。彼らを助ける唯一の手段として、片側のロープを切るしかありません。ローブを切られたいかだは川を下り、2人を無事救出できましたが、その方法は羊には使えません。残された手段は、来た道を戻り、より距離の長い北ルートを辿ること。リースとフォン・タンチェルマンは仕方なく、クラウン山脈を越えていくことにしました。結局ダンカンのショートカットは役に立ちませんでした。

待ち受ける試練

羊の大移動には4週間もかかりました。移動が完了すると妻のフランシスもクイーンズタウンに。彼女はその時、第二子を妊娠中。生まれてきた子供の名前は、ジョージ・マニング・リース。クイーンズタウンに到着した2週間後に生まれ、2ヵ月後に亡くなりました。その数ヶ月後、悲劇は再び訪れます。フランシスの兄で、リース夫妻と一緒に渡航した、ジョージ・ギルバートがクルーサ川を横断中に溺死。また嵐の日、リースのフェリーが転倒したため、乗客の1人ウィリアム・ロジャースも流されて遭難。もう1人の乗客、ジョン・ミッチェルはボートの船長ジャック・テワによって救出されました。 テワの勇気ある行動にリースは感銘を受け、彼をRoyal Humane Society Medalに推薦。その後もテワは「リースの約束の地」にさまざまな幸運をもたらすのです。

一攫千金

乗客を救出した1862年8月。テワは、アロー川の砂利の中から金らしきものも発掘。リースはそれが何を意味するのか、すぐに分かりました。オタゴのゴールドラッシュの到来です。法律では、有効な鉱物資源を発見した場合、採鉱のための整地することが定められています。従業員たちには、金のことは秘密にしてもらい、ウールの収穫後、ゆっくりと金の探査を実施する予定でしたが、そうしている間にも、毛刈り職人のトーマス・アーサーとハリー・レッドファーンがショットオーバー川で新たに金を発掘。なんと「リースの約束の地」の2つの金鉱が発見されたのです。そのニュースは瞬く間に広がり、数週間後には、何千人もの鉱山労働者たちが金目当てにリースの地を訪れたのです。

全盛時代

リースは鉱山労働者たちを拒むどころか大歓迎。農場の食材を与え、フェリーで金の出荷を手伝ってあげました。フェリーが夜中に着岸すると、レボルバーをベルトにはさみこみ、すべての労働者たちに食材が十分に行き渡っているかを確認しました。脅してくる労働者もいましたが、リースのボクシングスキルを見れば、すぐに引き下がり、二度と近寄ることはありませんでした。リースが描く、クイーンズタウンのヴィジョンは、一時的なゴールドラッシュを超え、遥か将来まで広がっていました。エンジニアのスキルを活かし、ピジョン島に挽材工場を建て、街中の主要な建物を建設。 羊用の小屋をホテルに改装し、初の行政府ビル、初の教会、フリーメーソンの集会所も立て、最初の病院の建設にも貢献しました。

コミュニティーの形成

リースは初のクリケットクラブや競馬場、順化協会の創設者。また自治会の会長を務め、英国国教会の礼拝を行う権利を与えられ、クイーンズタウンコミュニティーの主要メンバーに。1863年には、運送、経営者や所有者のアドバイザー、船頭、造船、ホテルの管理人、ショップオーナー、委託業者、木びき、金のバイヤー、食肉処理者、パン職人、土地管理人、土地所有者、渡船業者とクイーンズタウンで14社の企業を運営。聖パトリック祭では、町のフェスティバルに参加し、シングルスティックのフェンシング大会で優勝。彼の馬、バッカニアも乗馬ハードルで優勝。またヨットのニューアメリカ号も20マイルのボートレースを先頭を通過しました。リースのクリケットへの情熱が伝わり、1864年にはオタゴのチームに入団し、イングランド代表がニュージーランドを訪れた際、対戦試合にも出場。そのイングランドチームには、有名選手でいとこのテディー・グレースの姿も。リースにアウトを取られた彼は「彼と対戦できてとても幸せだった」と当時を振り返ります。

長期にわたる戦い

1863年、ワカティプのゴールドフィールズ開発が正式に声明され、リースが夢描いていた、のどかな湖や大きな牧場が急速に崩れ始めました。その後、ワカティプ地区には、片目のジミーやキャプテン・ムーンライト、ブリー・ヘイズ、ザ・バッキンガム、ゴールドフィールド鉱の詩人のチャールズ・サッチャーといった個性豊かな人たちが率いる、荒々しい鉱山労働者たちのコミュニティーが多数移住。時間を過去に戻すことのできないリースは、裁判所に行くことにしました。長期にわたり法廷で戦いましたが、結局クイーンズタウンにある自宅周辺の先買権を失い、他の住民と同じように土地を購入しなければいけませんでした。そこで彼は、広大な土地の整地を請け負った分の支払いをオタゴ地方議会に請求。1864年中頃、地方議会が補償金を支払うことで和解。実際の金額は公表されませんでしたが、約24万エーカー分の整地で、リース夫妻に10,000ポンドが支払われたと言われています。

愛情に満ちたお別れ

地方議会との和解が成立した頃、リースはクイーンズタウンから新しい居住地、カワラウ フォールズに移住していました。リースがガミーとグラントを結んだパートナーシップは1865年7月に解消。その翌年、リースはカワラウ フォールズの土地を売りに出しました。3人のパートナーシップがうまく機能していないことは明らかで、主な原因は鉱山労働者から放牧地を奪われたこと、羊たちの間で突然病が広がったこと、ガミーがオックスフォードにある高級カントリーハウスと農場への投資に失敗したこと。1867年4月、リース夫妻にお別れを言うため、ワカティプの住民は皆集まり、シルバーティーセットに製錬・成型された送別品をプレゼント。また住民の感謝の気持ちが綴られたスクロールには「あなたたちのこの土地を対する愛情は、町の繁栄に反映され、どんなに高く評価してもし過ぎることはありません。またあなたの慈善と優しさから生まれたサービスの数々はどんなに感謝してもしきれません」と記載されていました。

あとがき

クイーンズタウンにお別れを告げたリース夫妻は、次にニュージーランドの南島(ベンモア、オテケイエケ、テカポ、アレクサンドラの近くのギャロウェイ)に羊牧場を開設。リースはティマルの政府検査官に就任し、続けてグレイマウスやアッシュバートン、ウエリントンの調査官を務め、1897年に退職。1898年10月31日、リースはマルボロウにあるワイラウ病院で息を引き取りました。フランシスはそれから28年後の1926年に他界。彼らがクイーンズタウンで成し遂げた素晴らしい実績の数々は、今もなお語り継がれています。ザ リースやアロー、ダート、ショットオーバー川、セシル、ウォルターピーク。ニコラスやアルフレッド、ベン・ローモンドなどの山々。またジャックスポイントやアーサーズポイント、フランクトンなど、クイーンズタウンのさまざまな地名や店名は、リー ス夫妻の仲間たちから名付けられている。ウィリアム・ギルバート・リースとフランシスは、「リースの約束の地」に永続的な影響を与えたと言っていいでしょう。

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